第一印象やうわさで自分勝手に思い込んでいることがありませんか?
人のうわさなどの一次フィルター(色眼鏡)を付けた状態で、相手と接することで
損をしたことです。逆に、後でうわさを耳にして、相手の印象を書き換えたことなど。
私はありました。結果的にそれで得したことはなかったとおもいます。
人間の根本煩悩には六つあると教えがあります。
貧(貪欲、むさぼること)、瞋(憎しみ)、癡(無知)、慢(驕り)、疑(うたがい)、見(誤り)
とん、 しん、 ち、 まん、 ぎ、 けん
根本煩悩でなぜ「見」に「誤り」という意味が与えられているか。
人間は物事の一面しか見ないからです。
人が「見る」ときは、つねにそこには「誤り」がある。
しかし、一面しか見ない「見」の誤りも正しく修行をしていくことで、多面的、立体的に観察する「観」となる。
正しく見ることができれば、自分も、相手も、出来事も誤ることがなくなるということ。
可能性は無限に広がるはずです。
何となくわかっているけど、科学と仏教で語られると納得できちゃいますね。
行ける所まで行ってみよう。
人のうわさなどの一次フィルター(色眼鏡)を付けた状態で、相手と接することで
損をしたことです。逆に、後でうわさを耳にして、相手の印象を書き換えたことなど。
私はありました。結果的にそれで得したことはなかったとおもいます。
人間の根本煩悩には六つあると教えがあります。
貧(貪欲、むさぼること)、瞋(憎しみ)、癡(無知)、慢(驕り)、疑(うたがい)、見(誤り)
とん、 しん、 ち、 まん、 ぎ、 けん
根本煩悩でなぜ「見」に「誤り」という意味が与えられているか。
人間は物事の一面しか見ないからです。
人が「見る」ときは、つねにそこには「誤り」がある。
しかし、一面しか見ない「見」の誤りも正しく修行をしていくことで、多面的、立体的に観察する「観」となる。
正しく見ることができれば、自分も、相手も、出来事も誤ることがなくなるということ。
可能性は無限に広がるはずです。
何となくわかっているけど、科学と仏教で語られると納得できちゃいますね。
行ける所まで行ってみよう。